正良 壱…(続きます*)




 良守が夕食までの一時間ばかりを寝てすごそうと自室の襖をあけると、ちょうど電話がなった。家の電話ではない。良守の机の上で充電器にささっている携帯電話がヴヴヴっと良守を呼びだしたのだ。どこかで見ているんじゃないかと思うようなタイミングのよさだった。
 良守は手に持っていた洗濯物をばっさとほうりだして机に突進した。充電器から携帯電話をがつりと掴み上げて二つ折りのそれを開く。すうはぁと深呼吸をして息をととのえてから、人差し指で通話ボタンをおした。
「もしもし」
『良守?』
「…ほかに誰が出るってんだよ」
 語尾のあがったのんびりとした呼びかけについ突っかかってしまう。だが電話の相手は苦笑するだけでさらりと良守の短気を流してくれた。
『そりゃそうだ、お前の携帯だもんな』
「俺のじゃないよ」
『お兄ちゃんがかわいい良守くんにあげた携帯、でしょ』
 電話越しの正守の声は直に聞くよりも音がこもってやわらかく聞こえる。良守はその兄のやわらかさにつられて素直にこくんと頷いてから、電話では伝わらないと気づいてうんと言い足した。
『気にしないでもっとつかいなさいよ、明細みても基本料金しかひかれてないじゃない』
「そんなこと言たって、わざわざ電話かける相手なんて俺いないし」
『友達とかさぁ』
「や。学校でいつでも話せるし」
 そもそも良守は電話で友人と話すなんてめったにしたことがなかった。遊びに行く時間があったら家で修行なり睡眠なりとしていたいのだ。だいいちこの携帯の番号は家族しか知らないのだから、緊急の用事でもないかぎり良守から誰かにかけることはないだろう。
 良守がそんなことを考えていたら、耳もとからはぁぁとこれみよがしなため息が聞こえてきた。
「…なんだよ」
『もう、おまえってば貢ぎ甲斐のない子だなぁ』
「みつぐとか言うなばか」
『えー、だって、年下の恋人ったらそれが醍醐味でしょ。しかも良守はまだぴちぴちの中学生だし』
 電話のむこうの正守がくふふと笑った。良守はなにがぴちぴちだこの変態兄貴と思いながらも罵らずにおいた。正守の声が、気のせいかもしれないけれど疲れているように聞こえたからだった。
 正守と最後に話したのは先々週の月曜日だ。留守伝言の声を聞いただけだから、ほんとうは話したとはいえないかもしれない。やはりこの携帯に正守からかけてきたのだが、めずらしく良守本人がちゃんと授業に出ていて受け取れなかった。
 すこし込み入った仕事にかかるので連絡できないけれどそんなに心配することはないからね、と、馬鹿に丁寧な調子の伝言だった。兄の声が手元にあると思うと不思議で、良守は何度も再生してしまった。一言一句、抑揚までしっかりと思い出せる。
 それからもう十日以上たつ。
 ずっとかけてこなかったってことは、こいつずっと出ずっぱりだったのかな。
 良守はすこしくらい優しくしてもいいかと携帯電話をにぎりなおした。
「おまえさ、えーと、うーんと、…うーん、しなれない事は難しいな」
『なにが?』
「こっちのこと」
 難しいので、良守はずばりと聞く事にした。
「正守、俺に貢ぎたいの?」
『うん』
 即答だった。良守は早くも自分の仏心を後悔した。







『貢ぎたいの?』
 この弟はなんてかわいい事を言うのだろう。正守はうっとりしながらすこぶる良いお返事を携帯電話にむかって吹き込んだ。
「うん」
『…うーわ』
 良いお返事のお返事はものすごく嫌そうなため息だった。良守の言い方があんまりにも嫌そうで、一人もりあがってしまった正守は落差にがっかりしてしまうのだった。
「ちょっと良守。お前から話をふったんでしょ」
『いやあ、キモくて』
「ひっどい、キモいは酷いよ良守。なんでお兄ちゃんにそんなこというの」
『あーもう、かまっぽく絡むなよ。正守おまえ、この前言ってた込み入った仕事っての、あれはもう終わったの?』
「ん、うん。ついさっき」
 その仕事の帰路にこの電話をかけているのだからほんとうについ先ほどのことだった。
『じゃぁもう早く帰って休めよ』
 疲れてんだろ、と良守が小声で言い足した。いじっぱりな弟から示される精一杯の気遣いに、それだけで正守はもうこの十日間の気苦労もストレスも疲労も全部帳消しにしてもいいくらいに幸せになれるのだった。
「じゃあ良守、お疲れさまのニィちゃんのお使いを頼まれてくれない」
『おつかい?』
「そ。お祖父さんに貸してくれるように頼んだ本を持ってきて欲しいんだけど」
『それ、すぐ必要なのか?』
 祖父に頼んだのは墨村の蔵にごっそり眠っている妖についてかかれた文献だった。すぐに必要かというとそんなことはなくて、知識を深める為に目を通しておきたいという程度のものだった。けれど正守はまったく反対の答えを良守にかえした。
「そうだな、できれば早いほうがいいな。頼めるか?」
 こと妖に関してこの弟は酷く生真面目だ。こういう言い方をすれば断らない。案の定、良守は二つ返事で頷いた。
『わかった、すぐ持ってく』
「助かる」
『で、おまえ今どこに居んの?』
 正守は内心にんまりとしながら、声だけはふつうに続ける。
「じゃ、案内に迎えの式を出すから、出かける支度して待ってて」
 その式に本を持たせればわざわざ良守がでかける必要はないのだが、根の素直な弟はそんなことには気づかない。
「二十分くらいで着くから」
『りょうかい』
 じゃあなと良守が携帯電話を耳元から遠ざける音がした。正守はもう少しばかり弟の少年らしい声をきいていたくて、なによりまだこの電話をかけた本題を言っていない事に気づいてあわてて呼び止めた。
「…良守っ」
『なに?』
「あー、えーと」
『?』
「お礼に夕飯おごるから、食わずにこいよ」
『…ん』
 正守が最後の最後で言い出せたデートお誘いは、不名誉ながらまったく気の利かない文言だった。
 それに対する良守の返事はそっけないもので、そのまま、正守が何か言う前にぷつりと通話は切れてしまった。良守からの軽口なり憎まれ口なりを期待していた正守はあららと通話時間と料金を表示している携帯電話の液晶画面を見つめた。
「…何か気に障ること言ったかな」
 良守のあんまりそっけない切り方に正守はうううんと首をかしげた。
 若気のいたりなつい数ヶ月前までは弟の怒る顔が見たくて、それこそ言わなくても良いことをわざわざ気に障るように気に障る態度でもって言ってしまう傾向はあった。無視されるより怒らせて睨まれたほうが百倍好いというマゾ心ゆえだ。
 が、それも過去のこと。
 今では笑顔が一番かわいいと本人の顔に口をくっつけながら言えるようになった。いまの弟との良好な関係は快挙といっても言い過ぎではない。
 良守のほっぺたのふにっとした噛み心地を思い出した正守はくふふと込みあがってくる笑いをかみ殺した。
「いやいやそうじゃなくって、そう、良守だよ」
 正守は緩む脳みそから雑念をふりはらうべくぶるぶると坊主頭をふりまわした。
「良守にお迎えをやらんと」
 右のふところをごそりとやって小さな紙切れを取りだした。真ん中に四角い枠が墨書してある。式のもとになる紙だった。
人差し指と薬指にはさんだそれをぴらんと宙に放つとけむりのような濃いもやが立ち篭もった。
 もやが晴れると、そこには正守にそっくりな男が立っていた。
「じゃ、お迎えよろしく」
「はい」
 そっくりな男たちはそれぞれに地表をめざして結界の階段を下りていった。






2007/09/16壱
2007/10/12弐

早くも放置。